雷電為右衛門の生家から 雷電生家保存委員会
     
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         雷電の生涯はどうだったのだろう?

    大関雷電為右衛門の略年譜(1767年の誕生から現在まで)

 1767年(明和4)   1歳  雷電誕生 幼名は「太郎吉」という。   父::半右衛門 ・ 母: けん
 1781年(天明元)  15歳  長瀬村上原源五右衛門の相撲道場「石尊之辻」の内弟子になる
 1783年(天明3)   17歳  江戸相撲浦風一行が石尊の辻に逗留し太郎吉も稽古をうける
 1784年(天明4)  18歳  江戸浦風部屋入門、後に伊勢ノ海部屋谷風の内弟子になる
 1788年(天明8)  22歳  雲州松江藩松平治郷のお抱え力士。雷電を名のる
 1790年(寛政2)  24歳  江戸冬本場所、関脇で初土俵、8勝2預かりで初優勝する 
 1792年(寛政4)   26歳  佐倉市 八重と結婚する
 1795年(寛政7)   29歳  3月の春場所、西大関に昇進する
 1796年(寛政8)  30歳  母 けん、田中宿薬師堂に阿仁王像を奉納する
 1797年(寛政9)  31歳  43連勝達成する
 1798年(寛政10)  32歳  生家改築する。 娘(7月8日)、父半右衛門(11月7日)に死去する 
 1799年(寛政11)  33歳  11場所連続優勝、44連勝達成する
 1800年(寛政12)  34歳  巡業中、生家へ寄り借用金50両と酒屋借料28両を支払う
 1802年(享和2)  36歳   長崎で清(中国)の学者陳景山との酒比べに勝ち、絵・書・かばんを頂く
 1804年(文化元)  38歳  38連勝達成する 
 1808年(文化5)  42歳  海野宿白鳥神社に4本柱太鼓櫓を奉納する
 1811年(文化8)   45歳  閏2月14日相撲引退 雲州お相撲衆頭取申付けられる。
 4月1日仙台から東北6県・千葉・埼玉巡業、江戸へ10月24日に着く
 1812年(文化9)  46歳  地方巡業、山梨から飯田・善光寺・埼玉・群馬等で興行する
 1814年(文化11)  48歳  赤坂報土寺に鐘楼と吊鐘を寄進する
 1815年(文化12)  49歳  諸国相撲控帳を書き終える。 8月帰郷の折、小諸市の菩提寺・ 養蓮寺へ袂鐘を寄進する。
 また海野宿白鳥神社に四本柱土俵を奉納。
 1819年(文政2)  53歳  萬御用覚帳を書き終え、雲州藩とのかかわりを辞す
 1825年(文政8)  59歳  2月11日没。 法名:「雷院釈関為高輪信士」
 1827年(文政10)   ―  妻 八重 正月20日没 「竟院釈妙関為徳信女」
 1861年(文久元)   ―   佐久間象山によって雷電顕彰碑が北国街道1里塚に建立される
  1895年(明治28)   ―    勝海舟・山岡鉄舟が発起人となり、新しい雷電顕彰碑を建立する
 1900年(明治33)    ―    東京深川八幡「横綱顕彰碑」に「無類力士雷電為右衛門」と刻される 
 1984年(昭和59)   ―   雷電生家復元される
 2005年(平成15)   ―   道の駅「雷電くるみの里」に雷電記念館が建設される
 2007年(平成17)    ―    道の駅「雷電くるみの里」に東御市出身彫刻家、竹内不忘作の雷電像が建立される


 
  ==== 雷 電 為 右 衛 門 の 生 涯 ====

1 生い立ち
 
 天下無双の大力士雷電為右衛門は、1767(明和4)年信濃国小県郡大石村(現東御市滋野乙)に生まれた。 父は半右衛門、母はけん、幼名は太郎吉と称した。
 太郎吉が少年だった夏の午後、母が外で据え風呂に入っていると夕立があり、太郎吉は、母と風呂桶を抱えて家の土間に運びこんだという。 また、14歳の頃細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬を引いていたとき、加賀100万石の殿様の行列に出会い、よけることが出来ず困った太郎吉は、荷を積んだ馬の足をもち、抱き上げて行列を通して、お殿様からお褒めにあずかったなどの逸話が伝わっている。
 2 江戸相撲に入門

 千曲川の対岸にあった小県郡長瀬村(現上田市長瀬)の庄屋、上原源五右衛門は、学問好きで寺子屋の師匠をする傍ら、石尊の辻を作り相撲好きな若者の世話もしていた。 雷電の評判が上原源五右衛門にも届き、太郎吉は、引きとられ学問と相撲を修行するようになった。
 1783(天明3)年は、大飢饉にみまわれ、夏には浅間山の噴火もあり、江戸相撲浦風林右衛門の一行が北陸巡業中に、上原家に長期に滞在、その折に太郎吉は、本格的に相撲を覚えた。 そして翌年11月に江戸に上がり浦風部屋に入門、後に伊勢ノ海部屋谷風梶之助の内弟子となり力士としての第1歩を踏み出した。 時に太郎吉18歳。
 3 松江藩のお抱え力士

 浦風部屋入門4年後の1788(天明8)年9月、出雲国松江藩(20万石)の殿様、松平治郷(不昧公)の目にとまり、お抱え力士となり、松江藩ゆかりの四股名『雷電』をもらい、8石4人扶持を与えられた。
 雷電為右衛門の名が出たのは、1790(寛政2)年11月江戸本相撲が初土俵となり、いきなり西の関脇でつけだされた。  
 4 江戸相撲での活躍

 1790(寛政2)年11月24歳で江戸相撲に西関脇で初登場した雷電は、8勝2預りで優勝。
 1795(寛政7)年3月には、28歳で西方大関(江戸時代は西方が上位)に昇進、以来16年、27場所大関を張り、出場した25場所中24回優勝している。
 江戸相撲を通しての成績は、21年間、42場所の中で、出場35場所、このうち28回優勝、準優勝1回、勝率は、254勝10敗2分け、預り14回、無勝負5回で、9割6分2厘という古今最高の勝率を上げている。 また31歳の時には、43連勝、33歳で44連勝、38歳で38連勝している。
 雷電の最高時の体格は、身長6尺7寸(197㎝)、体重46貫(172㎏)といわれ、あまりに強く雷雷には、「張り手」「かんぬき」「突っ張り」の三つの禁じ手があったといわれている。
 1811(文化8)年2月場所は、腰を痛め全休し、この場所をもって45歳で江戸相撲を引退した。
 5 引退後の雷電

 引退後、雲州松江藩の相撲衆頭取を申し付けられる。 1811年4月から東北6県千葉県・埼玉県への巡業をはじめ、その後1816(文化13)年、49歳まで各地を巡業している。
 江戸相撲時代の1789(寛政元)年から27年間書き続けてきた巡業中の旅日記、『諸国相撲控帳(通称雷電日記)』
を1815(文化12)年に書き上げているのである。 この旅日記には、当時の相撲力士の行動、世俗を知る上でも貴重な書となっている。
 その後にも、松江藩相撲頭取として、1811(文化8)年2月~1819(文政2)年まで9年間に、藩のお抱え力士の江戸相撲とのかかわり、地方巡業中に采配を振るった記録を松江藩へ報告した公文書を書き留めた『萬御用覚帳』を書き上げている。
 『萬御用覚帳』を書き終える前年の1818(文政元)年4月には、雷電を召し抱えてくれた7代藩主松平不昧公が亡くなり、また1811(文化8)年全焼した江戸赤坂の報土寺が1814(文化11)年再建された折に、鐘楼と吊鐘を寄進したが、異形な鐘と寺社奉行に取壊しと江戸払いを命ぜられる。
しかし、翌1815年(文化12)の8月には、郷里に逗留、その後群馬県内で興行を行い、以後も特別行動の制約をうけていないように見受ける。 このようなこともあり、1819(文政2)年相撲頭取を辞したものと思われる。
 その後は、余生を妻、八重の実家のある佐倉で静かに過ごしたと思われるが、1821(文政4)年6月、母「けん」が73歳で没し、雷電為右衛門も、1825(文政8)年2月11日江戸で59歳をもって没し、江戸赤坂の報土寺に葬られた。
   法名 「雷聲院釈関高為輪信士」。
お墓は、この他にも郷里の東御市、島根県松江市の西光寺、佐倉市臼井にある。
雷電の死後、雲州藩の計らいで八重は、雲州藩の力士朝風石之助(後の四聲山加手右衛門・最高位は十両筆頭)を養子に迎え、現在もなお松江市に雷電の子孫関家が続いている。
妻八重も1827(文政10)年1月20日、61歳で亡くなり、お墓は佐倉市臼井の浄行寺(現在は妙覚寺管理地)に雷電と一緒に娘の墓と並び葬られている。 法名 「聲竟院釈妙関為徳信女」。

   
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